異文化コミュニケーションを理解しあえる 真のグローバル企業を目指しませんか

言葉以外にある異文化間のコミュニケーション理解の手段

母国語にせよ外国語にせよ言葉に不自由しなければ、もうそれでコミュニケーション能力は十分満たされるのでしょうか。
実は、言葉以外に、あるいはひょっとしたら言葉以上に重要と思われるものがあります。その一つは、人間の仕草や動作による表現であり、もう一つは、それぞれの文化の根幹にある固有の価値観です。

〇 目次 〇

1.ノンバーバル・コミュニケーション
2.表情
3.笑み
4.口
5.指
6.目
7.沈黙

ノンバーバル・コミュニケーション

アメリカのある学者によると、コミュニケーションにおける言葉の占める割合は、全体の10%にも満たないといいます。

それでは、言葉以外の残りの90%以上にあたるものは一体何なのか。

それは、仕草や表情、動作などの「視覚情報」と声の大小や高低、テンポ「聴覚情報」なのだそうです。わかりやすく言うとボディーランゲージです。つまり、指、手のひら、腕、肩、足などによるジェスチャー、そして目の動きや顔の表情、姿勢、身だしなみ、歩き方、話しの「間」のとり方、相槌のうち方、笑い方や一筋の涙まで、およそ意味を持つと思われる人間の仕草です。コミュニケーション学ではこれらを総称して、「非言語メッセージ」と呼ばれています。

では、人間の表情や仕草をそのまま読み取ればそれで万全かといいますと、これが一筋縄ではいかないのです。

なぜなら、人の仕草というものは決して万国共通ではないからでです。同じ文化内で通じる仕草も他の文化では通じないということが起きるのです。

表情

人間の生活においては、この「非言語」が口ほど以上にものを言うのです。

「賛成です」と言いながら、顔にはありありと不満げな表情が漂っているというのはよく見かけることですし、言葉は優しくても語る表情は硬く、状況の深刻さを額のしわが如実に語っているということもあります。

窮地に立たされて、『話せば分かる』などと思わず叫んだりしながらも、無意識のうちに首を振ったり、腕組みをしたり、顔を引きつらせたりしているのを見ると、どうやら「話しても分からない」のではないのかと判断したくもなります。

このように、実際のところ、人間は言葉だけに全てを託してはいないようです。
言葉に全てを託せないから、意識的・無意識的に人間の奥深い感情や本音が常に人の表情や仕草に「非言語メッセージ」となって現われるのかもしれません。

笑み

微笑む、笑うなどということは、世界の人だれにも分かることだろうと思いたいのですが、実はそれほど簡単な仕草ではないのです。
微笑みの仕方、微笑むタイミングにより異文化間ではその意味合いが大きく異なってしまいます。

例えば、何か失敗したときに日本人はよく照れ笑いをしたりしますが、その場合の「笑み」は、決しておかしくて笑っているわけではありません。
おかしくもないのに笑うなどということは、当然、異文化の方には不可解だと受け取られることにもなります。

また、他人の失敗にあまりにも大げさに笑うのは、かえって皮肉やバカにした笑いという風にとられることにもなりかねません。笑みや、笑いが人々の中に親しみを増す手助けとなるには、それなりのタイミングや条件が必要になるのです。

アクビをするとき、口に手を当てる仕草はなにも日本に限られた光景ではありません。
ところが、日本人女性が口を手のひらで隠すようにして話をしたり、微笑んだりする光景は、異文化の人々になにやら異様なものに感じられてしまうことにもなります。このジェスチャーでは、まるで、口臭を気にしているか、歯並びの悪さを気にしているかととれるからです。

人差し指と親指で輪を作れば、日本ではお金を意味しますが、アメリカではOKを意味し、フランスでは「ゼロ」になり、ブラジルではなんと性的な意味をあらわすシンボルになってしまいます。

「Vサイン」も気をつけなければならないサインです。手のひらを相手に向けての「Vサイン」なら構わないのですが、オーストラリアやイギリスで手の甲を相手に向けてVサインを作ってしまうとアメリカで中指を立てるのと同様に相手を侮辱するものになってしまいます。向き一つで取り返しのつかないことになってしまうので注意が必要です。

「私」を表わすのに、人差し指で顔や鼻を指す文化もあれば、同じ指でも親指で胸を指す文化もありますし、手のひら全部を胸に当てる文化もあります。日本人が、人さし指をわざわざ鼻に当ててまでして自分のことを確認するジェスチャーを、いかにも子供っぽく、さらには教養の無さを感じさせる仕草であると受け取る向きもあるので気を付けてください。

「非言語メッセージ」としてよく取り上げられる一つに、「アイ・コンタクト」と呼ばれるものがあります。対面してのコミュニケーションをするときの視線の置きどころのことです。人と話をするとき相手の目をじっと見るのが礼儀にかなう文化もあれば、それではかえって失礼になってしまう文化もあります。身分の高い人に対しては目を伏せがちになったり、背けたりする文化もあります。そうかと思えば、欧米に見られるように、絶えず直視されていないとコミュニケーションをとることに不安を感じるという文化もあります。

沈黙

黙っているということにも、それなりの「意味」が生まれます。全て言葉で説明しなければ済まないような文化であれば、沈黙はコミュニケーションの断絶を意味します。おしゃべりな人間が嫌われる文化であれば、沈黙は慎ましい態度として好意的に受け止められます。

文化によって、沈黙が合意として受け取られたり、あるいは全く逆に否定として受け取られることもあります。また、状況次第では、沈黙が「忍耐」とも「諦め」とも受けとられる誤解にもつながってしまいます。沈黙は、何もしていないかのように見え、なんら特別な意味がないようにも思えますが、文化の違いで解釈が大きく変わるとても不思議な「行為」なのです。

この他に、贈り物の受け渡し方や、話し相手とのスペースのとり方や臭いに対する人々の対応の仕方までもが、「非言語メッセージ」を構成するものとして考えられています。

このように、意識的、無意識的に働く様々な表現の存在があってはじめて、人間は、それぞれが抱く感情や、微妙な思いまでをも瞬時に相手に伝えることが可能になるのです。私達はまさに、「全身全霊」でメッセージを伝え合いコミュニケーションをとっていると言えるのです。

自国文化では当然と思えることが、異文化では当然ではなくなってしまうのがまさに文化の「隔たり」というものです。歴史、風俗が異なるように、文化背景が異なれば世界観、人生観、労働観、家族観、結婚観、宗教観、そして経済観念などに多様な差異が生じるのは避けられません。

このようにそれぞれの文化における意味の解釈にはその社会に脈打つ価値観が大きく作用しています。
この価値観は目には見えず、手には触れられないですが人々の生活に通じている様々な「尺度」に一度気付きさえすれば、異文化理解への道は開かれ、それまで矛盾に感じられたり、不可解であったことが次第に納得できるようになるのです。

私達は、「固有の価値観に支えられながら、心身共にコミュニケーションに参加している」と言えるのではないでしょうか。

記事:Hiragana Times 編集部Hiragana Timesロゴ

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